議論といっても大した議題ではないが「人は働くために生きているのか。生きるために働いているか。」であった。
私も生来頑固者であるので当初から「生きるために働く」という意見を曲げなかった。
友人も元々は私と同意見であったようなのだが、農業という休みもなく拘束時間も長い仕事を生業としているうちに、僅かな余暇の為に働くという事への矛盾を感じたらしく「働く」そのものが「生きる」ということなのではないかと感じたらしい。
この議論を結論へ導くことはできなかった。
それもそうであろう。人によって仕事への取り組み方は大きく異なる。
誰もが「やりたい事」があって仕事をしているわけだが、やりたい事が「仕事」そのものなのか、仕事をして得た「報酬」を使ってやりたい事なのか。
この原点が違うだけで最早仕事へ対する意識は大きく違うであろう。
先日、仕事終え、入院している後輩の見舞いに行った。
病棟の喫茶室で小一時間程他愛もない話をした後、一緒に見舞いに行った友人と帰宅がてら呑みに行こう。となった。
居酒屋へ向かう道中、歩道に目をやるとおばあさんが一輪車で白菜の山を運んでいるのが見えた。
時刻は既に7時を回っており、冬至を過ぎ徐々に日が長くなっているとはいえ辺りは真っ暗である。
年が半分もいかない私が暖かい車の中でヘラヘラと呑みに向かう中、日も暮れ、寒い中まだ仕事をしているおばあさん。
普段、誇大に「仕事が」「生産が」などと言っている私自身が恥ずかしくなった。
生きる為に働くのか?働く為に生きるのか?その答えに未だ辿り着くことは出来ないが、「働き者の日本人」の名を汚さぬよう仕事がしたい。
2008年1月10日(木)「 会うは別れの始まり 」
印象を人の心に刻み付けるとは意識して出来る事であろうか?
昨日「ミステリー」というバラを探して欲しいと頼まれた。
私の矮小な伝手を辿ったが生憎見つからなかった。
先方の詳しい事情は存じ上げないが、そのお花屋さんはどうしても「ミステリー」が必要だったのだろう。
「ミステリー」は一時期では良く市場に流通していたのだが、最近ではあまり見ない。
「ああ、あの花よかったのにねぇ。なんでなくなっちゃったんだろう。」
という話は良く聞く。
銘花だから綺麗だからといっても切花業界に残ることはできない。
毎年多くの新品種が市場に現れ、その数と同量、もしくはそれ以上の品種が流通という荒波から脱落していく。
バラの品種数は他の花よりも群を抜いて多い。
人々の記憶にも残らない品種も多いだろう。
我が家で昨年定植した品種が芽吹き、日一日緑を濃くしている。
彼女達も少しでも多くの人のお目にかかり、僅かでもいいから誰かの心に刻みついて欲しい。
例え流通の嵐に飲み込まれて水泡に帰しても、「あのバラ良かったね。」と言ってもらいたい。
私も少人数でいいから「ミステリー」のような誰かの心に名を刻める生産者に成長したいものだ。