バラの生産者とお花屋さんが、一堂に会し、新品種のバラを見て検討をし、またその新品種のバラを用いて実際にアレンジメントを披露する。
昨年も出席したが、大変素晴らしい会合だと、感嘆する。
バラについて多くのお花屋さんから、意見交換する機会というのは早々ないからだ。
フラワーアレンジメントのデモンストレーションの時間になり、別会場に足を運び、見学した。
数名のデザイナーの方が、我が家の「ワンダーウォール」と「バイアモーメント」「オレンジジュース!」を使用していた。
デモンストレーションの合間合間や終了後に、「ワンダーウォール」達の賛美の言葉を頂いた。
自らこんなことを言うのは大変恐縮であるが、耳を疑うほど大絶賛して頂いた。
私の父が母が、祖父母が30年余り努力して来た事が、ここに至り実を結んだと思うと、老いが始まり涙腺の緩くなってきた私の目頭も熱くなった。
「僕まだ23ですからぁ~!」と自負する若者よりも「23年バラを育てています。」の方が、何物にも替え難い輝きを感じる。
ただ、あまり褒められると「これはどっきりテレビなんじゃないか!!」と疑心暗鬼になってしまう。
天邪鬼の私は、後ろから迫り来る「ドッキリ大成功!!」の看板が恐ろしくて気が気ではない。
2008年10月24日(金)「 Online 」
「供給」というものは常に「需要」の下に成り立っていると私は思う。
物を買いたい人がいて始めて、商売は成就する。
生産者、供給者として、消費者、需要者の意向を無視する事はできない。
しかし、相反する2つの要求を満たそうとする時に、私はどちらを優先させればいいだろう。
「品質の高いバラが、大量に欲しい。」
この時期の日柄が良い週末は、ブライダル向けの花の需要が爆発する。
我が家の電話も忙しなく猛り、Fax用紙を吐き出す。
特に、白系のバラは奪い合いになり、市場から送られてくる注文書も無謀な程の注文本数になる。
しかし、その大量の需要にも応えようとするのが、供給者の常である。
もちろん、その背景には注文出荷であれば、高単価を期待できるし、故に利潤を求める気持ちがないと言えば嘘になる。
確かにそうであっても、お花屋さんや市場の期待や要請に応じたいと思う心もある。
もし、我が家が頑張って1本でも多くのバラを出荷しなければ、市場やお花屋さん、引いては今週結婚式をあげる人たちが困ってしまう。と思ってしまう。
そんな風にも思うから尚の事、需要に沿って多く出荷したいと思う。
本数が足りない場合は、少し切り前が硬くても(採花時期が早くても)、多少細かったり、頭が小さかったりしても、普段は出荷しなくても足してしまう。
それが、仇になる時がある。
品質が下がった。切り前が変わった。普段より短い、小さい、細い。と苦情を頂く事もある。
余計なお節介だったのであろうか?思い上がりであっただろうか?
「代品はいくらでもある。」と言われてしまえば、私達の無駄な努力はことごとく水泡に帰す。
気持ちが繋がっていない。
そう思う時が、しばしばある。